山口 一郎 若い 頃の姿を鮮明に記憶している音楽関係者は、いまやドームやアリーナを熱狂させるカリスマの原点に、泥臭いまでの敗北感があったことを知っている。サカナクションを率いて日本のロックシーンを塗り替えたフロントマン、山口一郎。文学的な詩世界と緻密なダンスビートを融合させた唯一無二のサウンドは、決して天性のひらめきだけで作られたものではない。冷え切った札幌の片隅で、もがきながら音を重ねていた若き日の長い助走期間があった。
ストリーミング全盛の現在、SpotifyのバイラルチャートやYouTubeの公式映像で数億回の再生数を叩き出す彼らだが、山口 一郎 若い 頃の足跡を丹念に辿ると、現在の洗練されたパブリックイメージを覆す生々しい試行錯誤が浮かび上がる。挫折にまみれ、鳴かず飛ばずだった青年期に、彼はいかにして自身のアイデンティティを築き上げたのか。知られざるルーツを掘り下げる。
下積み時代「ダッチマン」の衝撃:ギターロックに埋もれていた知られざる挫折
山口一郎のキャリアを語る上で避けて通れないのが、1998年に結成された前身バンド「ダッチマン(Dutchman)」の存在だ。当時のステージ写真は、いま見ると強烈なインパクトを放つ。現在のような黒を基調としたミニマルなスタイルとは対照的に、ボサボサの髪にルーズなシャツをまとい、荒々しくエレキギターをかき鳴らす青年の姿がそこにある。
ダッチマンが鳴らしていたのは、90年代後半の潮流を汲む王道のオルタナティヴ・ロックだった。メロディの美しさは当時から際立っており、地元・北海道のコンテストでグランプリを獲得するなど、早耳のリスナーの間では注目の的となる。しかし、現実は甘くなかった。インディーズレーベルから音源をリリースし、鳴り物入りで関係者の注目を集めたものの、商業的な成功には遠く及ばなかった。
「自分たちが信じる良い音楽を作っていれば、誰かが見つけてくれる」。そんな純粋な思い込みは、容赦のない数字と観客の冷淡な反応によって打ち砕かれる。CDは思うように売れず、ライブハウスのフロアには閑古鳥が鳴く日々。メンバー間の音楽性の不一致も露呈し、ダッチマンはあえなく活動休止、実質的な解散へと追い込まれた。この時の深い挫折感が、後に彼の音楽に対する強迫観念とも呼べる執念を生むことになる。
小樽と札幌が生んだ音楽的ルーツ:文学少年がクラブカルチャーに出会うまで
山口の特異な作家性は、北海道という寒冷な土地の空気感と、家庭環境が色濃く影響している。小樽で喫茶店を営み、木彫り職人でもあった父親の影響で、幼少期から安部公房や寺山修司、谷川俊太郎といった近現代文学に親しんでいた。言葉を単なる音としてではなく、意味と情景を宿した「文字」として解釈する感覚は、この時代に育まれたものだ。
少年時代にフォークソングの洗礼を受けた山口は、やがて札幌のアンダーグラウンドなナイトクラブの扉を開く。そこで目撃した光景が、彼の音楽人生を決定づけた。バンドマンたちがギターの歪みやエモーショナルな叫びで観客を煽る一方、薄暗いクラブではDJが淡々とレコードを繋ぎ、人々が言葉もなく夜通しステップを踏み続けている。「なぜ人は、歌がなくてもこれほどまでに踊るのか」。その圧倒的なフィジカルの解放に、強烈なショックを受けたという。
文学の持つ叙情性と、テクノやミニマル・ハウスが持つ身体性。交わるはずのなかった二つの要素が、若き日の山口の脳内で激しく衝突し、新たなフォーマットを模索する起爆剤となった。
メジャー契約解除と「サカナクション」結成前夜の光と影
ダッチマンの空中分解後、山口はかつてない孤独と焦燥に直面する。所属していた育成契約も打ち切られ、手元に残ったのは借金と、自宅のアパートに置かれた旧式のMTR(マルチトラックレコーダー)だけだった。生活のためにレコードショップでアルバイトをしながら、深夜になると一人ヘッドフォンを被り、黙々とデモテープを録音し続ける日々が続いた。
当時、札幌の音楽仲間たちからは「あいつは終わった」と囁かれることもあったという。しかし、このどん底の期間こそが、サカナクションを生み出す決定的なインキュベーション(孵化)の場となる。バンドサウンドの限界を感じていた山口は、DTM(デスクトップミュージック)を駆使し、電子音とアコースティックな響きを融合させる実験を繰り返した。
2005年、同じく札幌で活動していた岩寺基晴(Gt)を誘い、ユニットとしてサカナクションを始動。のちに草刈愛美(Ba)、岡崎英美(Key)、江島啓一(Dr)が合流し、5人編成のバンドとしての骨格が完成する。「魚」と「アクション」を掛け合わせたバンド名には、周囲の嘲笑を恐れず、変化を恐れずに泳ぎ続けるという決意が込められていた。
オルタナティヴ・ロックからエレクトロ・ポップへ:サウンド革新の原動力
サカナクションの初期音源を聴くと、ダッチマン時代から引き継がれたオルタナティヴ・ロックの鋭角なギターリフと、新しく導入されたエレクトロ・ポップのシンセサイザーが見事な緊張感で拮抗していることがわかる。単に洋楽のトレンドを模倣するのではない。彼らが目指したのは、日本の伝統的な歌謡曲の哀愁やフォークのメロディを、フロア対応のダンスミュージックへ落とし込むことだった。
ライブハウスではなく、クラブの現場で鳴らしても通用するキックの低音、左右に緻密に配置された音像定位。山口はエンジニアリングの領域にまで異常なこだわりを見せ始める。リスナーを「踊らせる」ことに対する執拗なまでのアプローチは、若い頃に味わった「音が届かない悔しさ」の裏返しでもあった。
バンドがステージ上でラップトップを横一列に並べ、DJスタイルでシンセサイザーを操るパフォーマンスは、当時のロックフェスシーンにおいて異端中の異端だった。だが、オーディエンスの反応は正直だった。身体が勝手に揺れ、歌詞が頭に染み込んでいく新感覚のグルーヴは、瞬く間に全国のリスナーを侵食していった。
ビクターエンタテインメント移籍と『新宝島』への道:日本の音楽産業を覆した戦略
メジャーデビューの舞台となったビクターエンタテインメントとの歩みは、日本の音楽産業におけるメジャーとインディペンデントの新しい共闘関係のモデルケースとなった。山口は常に、ビジネスの力学を利用しながら、いかにしてコマーシャリズムと芸術性を両立させるかという難題と戦い続けた。
その戦いが一つの頂点を迎えたのが、2015年のシングル『新宝島』だ。昭和歌謡や黎明期のシンセポップを彷彿とさせるキャッチーなリフ、コミカルでありながら狂気的な完成度を誇るミュージックビデオ。この楽曲は、マニアックな音楽オタクだけでなく、お茶の間のライト層までも巻き込み、社会現象となった。
若い頃の山口であれば、大衆に寄り添いすぎたアプローチを「セルアウト」として拒絶していたかもしれない。だが、下積みの苦渋を舐め尽くした彼は知っていた。どれほど崇高な音楽であっても、届かなければ存在しないのと同じだということを。『新宝島』の爆発的なヒットは、ポップカルチャーのど真ん中に自身の美学を突き刺すという、覚悟の勝利だった。
映画『バクマン。』と日本アカデミー賞最優秀音楽賞:孤高のクリエイターが見据える未来
サウンドクリエイターとしての山口一郎の評価を決定づけたのが、映画『バクマン。』の劇伴制作である。劇中のペン入れの音や原稿をめくる音をサンプリングし、映画の鼓動そのものを音楽として構築した革新的なスコアは絶賛を浴び、第39回日本アカデミー賞で最優秀音楽賞を受賞。ロックバンドの枠組みを完全に超越した瞬間だった。
クリエイターが机にかじりつき、孤独のなかで作品を絞り出す姿を描いた『バクマン。』の物語は、札幌の四畳半でヘッドフォンから漏れる電子音と対峙していた、かつての山口一郎自身の姿と重なる。
紆余曲折を経て、シーンの頂点へと登りつめた山口一郎。現在もなお、配信プラットフォームや立体音響など最新テクノロジーへの挑戦を止めない彼の眼差しは、あの日の札幌の寒空を見上げていた青年時代と、何も変わっていない。痛みを知る表現者だけが鳴らせる音が、今日も混迷の時代を生きる私たちの耳を撃ち抜いている。 (出典: 山口 一郎 若い 頃(Yahoo!ニュース))