Tokorozawatexas サイバー速報

目黒競馬場はなぜ消えた?ダービー発祥の地・府中移転の真相と現在

2026年10月16日 読了目安: 3 分 polymax
目次 [ INDEX ]
目黒競馬場はなぜ消えた?ダービー発祥の地・府中移転の真相と現在
目黒競馬場はなぜ消えた?ダービー発祥の地・府中移転の真相と現在
@ creator • クリックで動画を再生
🎵 目黒競馬場はなぜ消えた?ダービー発祥の地・府中移転の真相と現在

東急目黒線やJR山手線が交差する利便性と、洗練された街並みで高い人気を誇る東京都目黒区。目黒通りを路線バスで進むと、車内アナウンスに突如として「次は、元競馬場前」という耳慣れない停留所名が響きます。一見すると平穏な高級住宅街に、なぜ競馬場という名の痕跡が色濃く残されているのか、不思議に思った経験はないでしょうか。

実はこの地こそ、日本競馬の最高峰である「日本ダービー」が初めて開催された伝説の舞台、旧「目黒競馬場」の跡地です。幾万人もの競馬ファンを熱狂させた一大エンターテインメント空間が、なぜ姿を消さざるを得なかったのか。歴史の深層にある府中への移転劇と、街並みに今なお息づくコースの記憶を紐解きます。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:目黒競馬場は1932年に第1回「東京優駿大競走(日本ダービー)」が開催された歴史的聖地である。
  • 要点2:関東大震災後の急激な宅地化、地価高騰に伴う借地契約の難航、敷地の狭隘化が府中移転の決定打となった。
  • 要点3:跡地は下目黒の住宅街へと変貌したが、緩やかなカーブを描く道路や「元競馬場」の交差点、名馬トウルヌソル像に当時の面影が色濃く残る。

【歴史詳細】日本ダービー発祥の地・目黒競馬場の誕生と黄金期

目黒 競馬 場の関連写真・ビジュアル
【画像】目黒 競馬 場 関連ショット

目黒競馬場の歴史は、明治末期の1907年(明治40年)にさかのぼります。東京競馬会によって開設されたこの施設は、1周1マイル(約1600メートル)の本格的な馬場を誇り、当時としては破格のスケールを持つ近代競馬場として整備されました。その後、東京競馬倶楽部が運営を引き継ぎ、日本の競馬文化を牽引する中核施設へと発展を遂げます。

その歴史の中で燦然と輝く金字塔が、1932年(昭和7年)4月24日に行われた第1回「東京優駿大競走」の開催です。英国のダービーステークスを模範とし、日本一の3歳馬(現3歳表記)を決めるべく創設されたこのレースこそ、現在の「日本ダービー」の原点にほかなりません。曇り空の下、19頭の精鋭が出走したレースを制したのは、圧倒的1番人気に推されたワカタカでした。泥濘をものともせず先頭でゴール板を駆け抜けた瞬間、目黒のスタンドは地鳴りのような歓声に包まれたと記録されています。

日本の競馬史において、目黒競馬場は単なる一競技場にとどまらず、国を挙げた一大ホースレースの礎を築いたまさに「聖地」そのものでした。

【移転理由の深層】目黒競馬場はなぜ消えたのか?府中へ移転した決定的な背景

目黒 競馬 場の様子・注目ショット
【写真】目黒 競馬 場 近影・注目カット

熱狂の中心地であった目黒競馬場が、なぜ開場からわずか26年後の1933年に閉鎖を余儀なくされたのか。その最大の理由は、1923年(大正12年)の関東大震災を契機とした東京の急激な都市構造の変化にありました。

震災後、壊滅的な被害を受けた下町から武蔵野台地方面への人口流入が加速し、それまで農村地帯だった目黒周辺は急速に住宅地へと変貌していきました。ここで致命的な足かせとなったのが、目黒競馬場の敷地が「大半を民有地からの借地」に頼っていた点です。地価が暴騰するにつれ、地主たちからの借地料引き上げ要求や返還要求が激化し、運営母体である東京競馬倶楽部の財政を圧迫しました。

さらに、競馬人気の上昇に反比例して敷地の狭さは限界を迎えていました。コースの拡張はおろか、増え続ける観客を収容するスタンドの増築や、安全なパドックの確保すら不可能な状態に追い込まれます。将来的な発展を見据えた倶楽部は、自前で広大な敷地を確保できる新天地を模索。こうして白羽の矢が立ったのが、緑豊かで広大な敷地を有していた北多摩郡府中町(現・東京都府中市)でした。1933年(昭和8年)の春季開催を最後に目黒はその役目を終え、同年秋からは現在の「東京競馬場(府中)」へとバトンが渡されたのです。

【重賞の原点】伝統のGⅡ「目黒記念」に受け継がれる競馬史のメモリー

目黒 競馬 場の報道・詳細資料
【資料】目黒 競馬 場 報道・メディア記録

競馬場自体が姿を消した後も、その存在を現代のファンに強烈に意識させているのが、JRAの重賞競走「目黒記念(GⅡ)」です。この競走は、目黒競馬場が廃止される直前の1932年、日本ダービーと同じ年に「各内国産古馬競走」として創設されたのが始まりでした。

府中への移転に伴い、競馬場の功績と歴史を後世に伝える目的で「目黒記念」へと改称され、現在に至るまで脈々と受け継がれています。長きにわたり春と秋の年2回開催されていましたが、現在は日本ダービー当日の最終レースを飾る伝統のハンデ重賞として定着。ダービーの熱気が残る東京競馬場で、発祥の地である「目黒」の名を冠した長距離戦が行われるという構成は、競馬ファンにとって歴史のロマンを感じずにはいられない粋なプログラム設定といえます。

【街歩き検証】跡地の変遷と現在|閑静な住宅街に残る競馬場の痕跡

府中への移転後、競馬場の広大な敷地は大規模に区画整理され、官民を巻き込んだ住宅地開発が進められました。かつての馬場は綺麗に均され、昭和初期から中期にかけて高級官僚や文化人が居を構える邸宅街へと変貌を遂げていきます。行政区画としては、現在の東京都目黒区下目黒4丁目から6丁目付近がその中心地に該当します。

一見すると整然とした現代の住宅街ですが、航空写真や住宅地図を仔細に眺めると驚くべき痕跡が浮かび上がります。街区の道路形状が、かつての1周1マイルのオーバルコース(楕円形)の外周に沿って綺麗に緩やかな弧を描いているのです。碁盤の目状に区切られる一般的な住宅街の中で、不自然なカーブを描く生活道路の数々は、かつてサラブレッドが全力疾走していたコースの名残にほかなりません。

また、幹線道路である目黒通り沿いには「元競馬場交差点」が堂々と鎮座し、東急バスの停留所にも「目黒通り元競馬場前」の表記が残されています。土地の記憶を風化させまいとするかのように、日常のランドマークとして競馬場の名が生き続けています。

【モニュメント探訪】元競馬場のシンボル「トウルヌソル像」と街の記憶

目黒競馬場の歴史を視覚的に今へと伝える最大のシンボルが、下目黒5丁目の住宅街にひっそりと佇む「元競馬場南泉公園」に設置された名馬の銅像です。公園の一角で威厳に満ちた姿を見せるそのブロンズ像は、名種牡馬「トウルヌソル」を模したものです。

トウルヌソルはイギリスから輸入された種牡馬で、第1回日本ダービー馬ワカタカをはじめ、数多くの名馬を世に送り出して戦前・戦中の日本競馬界に黄金期をもたらしました。地域の歴史遺産を記念し、かつてこの地にあった熱気と栄光を象徴する存在として、1980年代に有志や関係者によって建立されたものです。

台座には目黒競馬場がこの地にあったことを記す記念碑が刻まれており、静かな住宅街の中で遊ぶ子どもたちや散歩中の住民を、名馬の瞳が今も優しく見守っています。

【目黒競馬場】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:目黒競馬場は具体的に現在のどのあたりにあったのですか?
A1:現在の東京都目黒区下目黒4丁目・5丁目・6丁目一帯に位置していました。目黒通り沿いにある「元競馬場交差点」やバス停「元競馬場前」周辺から南側へ広がる住宅街が、かつての広大な敷地およびコースの跡地です。

Q2:なぜ目黒競馬場は移転先に「府中」を選んだのですか?
A2:目黒の敷地は借地料の高騰や周辺の急激な宅地化により拡張が不可能でした。そこで、広大な敷地を自前で確保でき、将来的なコース拡張や大型スタンドの建設が可能な場所として、平坦な土地が広がっていた北多摩郡府中町(現・府中市)が選定されました。

Q3:現在の目黒競馬場跡地で競馬の面影を感じられるおすすめスポットは?
A3:下目黒5丁目にある「元競馬場南泉公園」の「トウルヌソル像」が最も象徴的なスポットです。また、公園周辺の住宅街を歩くと、かつてのコース外周そのままの滑らかなカーブを描く道路が残されており、フィールドワークとしても競馬の歴史を肌で体感できます。

まとめ:都市の記憶として息づく目黒競馬場のレガシー

大正から昭和初期にかけて大衆を熱狂させ、日本ダービーという不滅の文化を生み出した目黒競馬場。都市化の波に押されて府中へと拠点を移してから長い歳月が経過した現在も、その足跡は完全に消え去ったわけではありません。

「元競馬場」という交差点名やバス停、街並みに描かれたオーバルコースの曲線、そして静かに佇むトウルヌソル像。日常の風景の中に溶け込んだそれらの痕跡は、目黒という街がかつて日本競馬の最高峰を育んだ誇り高い歴史を、雄弁に物語り続けています。 (出典: 目黒 競馬 場(Yahoo!ニュース))

伊藤 美咲 (Misaki Ito)
トレンドデスク記者
伊藤 美咲 (Misaki Ito)

ITニュースやSNSバズ情報を多角的な視点から取材・検証。信頼できるまとめ記事を発信中。

あなたにおすすめの関連記事