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上野の西郷隆盛像はなぜ着流しで犬連れ?似てない噂と歴史の謎を追う

2026年10月14日 読了目安: 3 分 polymax
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上野の西郷隆盛像はなぜ着流しで犬連れ?似てない噂と歴史の謎を追う
上野の西郷隆盛像はなぜ着流しで犬連れ?似てない噂と歴史の謎を追う
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🎵 上野の西郷隆盛像はなぜ着流しで犬連れ?似てない噂と歴史の謎を追う

東京・上野恩賜公園の緑の中に佇み、訪れる人々を見下ろす巨大な銅像。誰もが一度は目にしたことがある「上野の西郷さん」こと西郷隆盛像だが、その姿を改めて見つめると、幾重もの疑問が湧き上がってくる。明治維新を成し遂げた陸軍大将でありながら、なぜ威厳ある軍服ではなく質素な着流し姿なのか。そして、なぜ傍らに犬を連れているのか。

明治31年(1898年)の除幕式で、西郷の妻・糸子夫人が放った「宿んし(うちの人)はこげんなお人じゃなかつた」という言葉は、今なお語り継がれる最大のミステリーだ。幕末から明治へと激動した日本において、国家の英雄でありながら「朝敵」として命を落とした西郷隆盛。その銅像建立の舞台裏には、単なる記念碑にとどまらない、壮絶な政治的妥協と芸術家たちの葛藤が刻み込まれていた。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:散歩ではなく「ウサギ狩り」の姿。軍服を着せられなかったのは、西南戦争で逆賊となった政治的背景と、市民に愛される庶民派の象徴へ昇華させる妥協策だった。
  • 要点2:西郷には本物の写真が1枚も存在しない。銅像は親族の顔を合成して制作され、糸子夫人の発言は「顔」だけでなく「人前に出る服装ではない」という礼節の指摘でもあった。
  • 要点3:建立地が上野恩賜公園に決まった理由は、彰義隊を壊滅させた「上野戦争」の最高指揮官としての因縁と、皇室下賜の地という歴史的意味が深く絡み合っている。

【着流し姿の理由】軍服が許されなかった「逆賊」の過去とウサギ狩り

西郷 隆盛 像 上野の関連写真・ビジュアル
【画像】西郷 隆盛 像 上野 関連ショット

上野の西郷隆盛像を前にした多くの人が抱く最大の謎が、その服装だ。同時期に活躍した大久保利通や木戸孝允の像、あるいは鹿児島市内に立つ西郷像がいずれも端正な洋装や大将の軍服を身にまとっているのに対し、上野の西郷像は素足に草履、胸元を緩めた浴衣のような「着流し」姿である。

この姿の直接的なモチーフは、西郷が日課としていた「ウサギ狩り」の出で立ちだ。西郷は肥満に起因する健康維持のため、下野して鹿児島に戻った後、愛犬を引き連れて山野を駆け巡る狩猟を好んだ。彫刻が身につけているのは帯に挟んだ「腰蓑(こしみの)」と「兎罠(うさぎわな)」であり、散歩ではなく真剣な狩りの瞬間を切り取ったものである。

しかし、なぜ国家の元勲を顕彰する記念像に、あえてオフタイムの狩猟姿が採用されたのか。そこには極めて現実的な政治判断が存在した。西郷は明治10年(1877年)の西南戦争で明治政府軍と戦い、逆賊として敗死した人物である。明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によってようやく西南戦争と名誉回復が果たされたものの、かつて政府軍に銃口を向けた反乱の首謀者に、政府軍の象徴である「陸軍大将の軍服」を着せることには、当時の軍部や政府首脳から猛烈な反発があった。

時の関係者たちは議論を重ねた末、「軍人・政治家としての西郷」ではなく、「野に下り自然を愛した無私無欲の庶民派・西郷」を描くことで決着を図った。着流し姿は、権力闘争から一線を画した西郷の清廉さを際立たせるための演出であると同時に、政府内の軋轢を避けるためのギリギリの政治的妥協の産物だったのだ。

【なぜ犬を連れているのか】愛犬「ツン」の正体と彫刻家・後藤貞行の執念

西郷 隆盛 像 上野の様子・注目ショット
【写真】西郷 隆盛 像 上野 近影・注目カット

西郷像のもうひとつのトレードマークが、傍らで凛々しく立つ一頭の犬である。犬を連れた指導者の巨大彫刻は世界的に見ても極めて珍しい。なぜ犬を連れているのかという疑問の背景には、西郷が無類の愛犬家であった事実がある。

西郷は生涯に数十頭もの犬を飼い、名前を付けて家族のように可愛がっていたと伝えられる。ウサギ狩りの名手であった西郷にとって、猟犬は過酷な山中を共にする命の相棒でもあった。上野の像で連れている犬は、西郷が最も気に入っていたとされる薩摩犬の牝犬愛犬ツンがモデルとされている。

この犬の像には、日本の近代美術史における驚くべきこだわりが詰まっている。人物本体を手掛けたのは近代木彫の巨匠・高村光雲だが、犬の制作は動物彫刻の第一人者であった後藤貞行が一任された。後藤は西郷像のために何頭もの薩摩犬を観察・スケッチし、野性味と主への忠誠心が交錯する筋肉の躍動感を銅像に封じ込めた。

ところが、ここに歴史の皮肉が潜んでいる。モデルとなった「ツン」は薩摩地方にいた牝犬(メス)だったが、制作時に高村光雲や後藤貞行のもとへ届いた参考犬の写真や生体情報が雄犬(オス)のものであったため、銅像の犬は雄の特徴を持って造形されてしまった。さらに、ツンの特徴である「ピンと立った耳」ではなく、別の猟犬の血統が混ざったような姿になったとも言われている。美術品としての完成度があまりに高かったがゆえに、この犬の造形は独立した傑作として今も彫刻界で高く評価されている。

【顔が似てない噂の真相】写真が残っていない理由と糸子夫人の証言

西郷 隆盛 像 上野の報道・詳細資料
【資料】西郷 隆盛 像 上野 報道・メディア記録

明治31年12月18日、冷え込む上野恩賜公園で行われた除幕式。幕が振り落とされた瞬間、招待席にいた西郷の未亡人・糸子夫人が漏らした言葉が周囲を騒然とさせた。「宿んしはこげんなお人じゃなかつた(うちの人はこんな人ではありませんでした)」。この糸子夫人の証言は、瞬く間に「上野の西郷像は本人の顔と全く似ていない」という噂として全国へ広まった。

結論から言えば、この銅像の顔は完全な本人の写実ではない。その根本的な要因は、西郷隆盛の写真が残っていない理由にある。幕末から明治初期、すでに要人の肖像写真は広く撮影されていたが、西郷は極端な写真嫌いだった。暗殺を警戒して自らの肖像が敵の手に渡るのを嫌ったとも、生来の無頓着さから断り続けたとも言われるが、真相は定かではない。いずれにせよ、公式な本人の写真は後世に1枚も残されなかった。

では、あの精悍で太い眉と鋭い眼光を持つ顔はどのようにして作られたのか。制作のベースとなったのは、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが描いた有名なコンテ画の肖像画である。キヨッソーネは西郷に瓜二つとされた実弟の西郷従道の顔の上半分と、従兄弟である大山巌の顔の下半分をモンタージュのように合成し、西郷の知人たちの証言を重ね合わせて「理想の西郷隆盛像」を描き出した。

高村光雲はこのキヨッソーネの画をもとに、親族の骨格や証言を徹底的に洗い出して立像を彫り上げた。しかし、毎日顔を突き合わせていた妻の糸子夫人から見れば、合成された「他人の面影」が混ざった像に強烈な違和感を覚えるのは当然だった。また、糸子夫人の発言は顔立ちだけを指したものではなく、「人前に出るときは礼儀を重んじ、身なりをきっちり正していた夫が、大衆の前に浴衣同然の姿で晒されていること」に対する妻としての悲しみと抗議の意味が込められていたという説が、現在では極めて有力視されている。

【上野恩賜公園と建立経緯】なぜ皇居前ではなく彰義隊の眠る山なのか

西郷隆盛の銅像を東京のどこに建てるかという議論において、当初は皇居前広場や日比谷なども候補に挙がっていた。それにもかかわらず、最終的に上野恩賜公園が選ばれた背景には、幕末の動乱における決定的な歴史の因縁が存在する。

慶応4年(1868年)、旧幕府軍の残党である彰義隊が上野の山(寛永寺)に立てこもり、新政府軍と激突した「上野戦争」。このとき、新政府軍の大総督府参謀としてわずか1日で彰義隊を壊滅させ、江戸の街を戦火の壊滅から救った作戦立案者こそが西郷隆盛その人だった。つまり上野の山は、西郷が軍事的天才としての力量を天下に知らしめた記念碑的な古戦場だったのだ。

さらに、上野恩賜公園は明治6年(1873年)に日本最初の都市公園として指定され、明治政府が近代国家の威信をかけて整備した文化と文明開化の拠点であった。かつての敵である彰義隊の慰霊碑(現在も西郷像のすぐ近くに現存する)を見下ろす位置に西郷像を置くことは、戊辰戦争の終結と新たな国家統合の象徴という意味合いを帯びていた。

全国の有志や旧薩摩藩関係者から集まった多額の寄付金、そして勝海舟ら旧幕臣たちの尽力によって進められた上野戦争と建立経緯は、勝者と敗者の恩讐を乗り越え、新しい日本を象徴するパブリックアートとして上野の地に刻まれることとなった。

【西郷隆盛像の場所アクセス】上野恩賜公園内の最短ルートと見どころ

広大な敷地を誇る上野恩賜公園の中で、西郷隆盛像は南端の高台に位置している。初めて訪れる人でも迷わず辿り着けるよう、西郷隆盛像の場所アクセスを整理しておこう。

最もわかりやすいアクセスルートは、JR上野駅の「南口」または「不忍口」からのアプローチだ。改札を出てすぐ目の前にある横断歩道を渡り、上野恩賜公園へ上る大階段(さくら通りへ向かう階段)を上がると、徒歩約3分で広場の中央に立つ巨像の正面に到着する。京成上野駅を利用する場合は、正面口を出て左手の山王台へ続く階段を登れば約2分という至近距離だ。

現地を訪れた際に注目したいのが、像の圧倒的なスケール感と台座の工夫である。本体の高さは約3.7メートル、台座を含めると8メートルを超える威容を誇る。高村光雲は、鑑賞者が下から見上げるアングルを計算し尽くし、頭部を実際の人体比率よりも意図的に大きく造形した。この遠近法の補正によって、真下から見上げた際に均整の取れた堂々たる巨躯が立ち現れる仕掛けになっている。

像の背後には、西郷像建立の経緯を記した銘板がはめ込まれており、少し足を伸ばせば西郷軍と戦って散った彰義隊の墓所も静かに佇んでいる。公園の賑わいと歴史の静寂が交差するこの場所は、東京観光の中でも屈指の歴史深さを体感できるスポットだ。

【西郷隆盛像(上野)】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:西郷隆盛の本物の写真は本当に一枚も残っていないのですか?
A1:2026年現在に至るまで、西郷隆盛本人と確定された写真は1枚も見つかっていません。これまで「西郷の写真ではないか」とされる古写真が何度か発見され話題を呼びましたが、いずれも学術的な検証により別人であると結論づけられています。本人が極端に撮影を拒み続けたため、公式な肖像はキヨッソーネの肖像画や親族の記憶に基づく絵画のみです。

Q2:連れている犬の「ツン」はどんな種類の犬ですか?
A2:薩摩地方(現在の鹿児島県)固有の狩猟犬である「薩摩犬(さつまけん)」です。ピンと立った耳と巻き尾、引き締まった体幹を持ち、気性が激しく主人に極めて忠実な名犬として知られていました。ただし上野の銅像では、後藤貞行が別の犬を参考にして造形した影響で、耳がやや垂れ、体つきも純粋な薩摩犬とはわずかに異なる特徴を持っています。

Q3:鹿児島にある西郷像は軍服なのに、なぜ上野だけ着流しなのですか?
A3:鹿児島市に昭和12年(1937年)に建てられた西郷像は、彫刻家・安藤照によって「陸軍大将」としての威厳を後世に伝える目的で制作されたため、正装の軍服姿となっています。一方、上野の像は明治期に作られたものであり、西南戦争の反乱首謀者という政治的配慮から軍服を避け、自然を愛する人間・西郷の側面を強調するために着流しのウサギ狩り姿が選ばれました。

まとめ:時代に翻弄された英雄の真実と、上野に佇む巨像の魅力

上野の西郷隆盛像が放つ独特の存在感は、単なる歴史上の偉人の記念碑という枠に収まらない。軍服を剥ぎ取られた末に選ばれた着流し姿、本人の顔を知らぬまま作られた肖像、そして激戦の地を見下ろす巨躯。そこには、激動の近代化を突き進んだ日本が抱えた葛藤と、それでもなお西郷という男を愛さずにはいられなかった民衆の熱情が刻まれている。

糸子夫人の困惑も、明治政府の政治的打算も、すべてを飲み込んで西郷像は120年以上の歳月を上野の山で生き続けてきた。次に上野恩賜公園を訪れるときは、ぜひ足元から見上げてみてほしい。太い眉の奥にある瞳が、私たちが生きる今の日本をどのように見つめているのか、立ち止まって思いを馳せる価値がそこにはある。 (出典: 西郷 隆盛 像 上野(Yahoo!ニュース))

山本 結衣 (Yui Yamamoto)
トレンドデスク記者
山本 結衣 (Yui Yamamoto)

最新のテクノロジーやネットトレンド、カルチャー速報を分かりやすく整理・分析して読者へお届けします。事実に基づく公平な記事構成を重視しています。

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